ナショナルシアターライブ「シラノ・ド・ベルジュラック」雑感

ナショナルシアターライブ「シラノ・ド・ベルジュラック」について、

主にルッキズムと「恋愛なるもの」への疑問のような雑感です。

 

主人公シラノは、すぐれた詩の才能を持っているが、

自分の鼻が大きく醜いと思い込んでいる。

一方クリスチャンは、容姿は美しいが詩や言葉の才能は

シラノには遠く及ばない。

クリスチャンが恋の相手ロクサーヌの心をつかむために、

シラノはクリスチャンに自分の文才を貸すことを思いつく。

ちなみにシラノもロクサーヌのことが好きである。

が、自分はその容姿のため女性に恋愛/性愛対象として見られない、と気にしている。

 

シラノとクリスチャンが恋心を寄せるロクサーヌは、

すぐれた知性に恵まれている。

しかしその類稀な美貌が災いし、ろくでもない男に目をつけられる。

権力者に性的な視線を向けられ、あわやという事態になるも、機転で切り抜ける。

 

キャストによる作品解説

 

ここで主演シラノ役ジェームズマカヴォイは

objectify(対象化)という言葉を使っている。

また、シラノが自分の鼻のことを極端に気にしていることは

body dysmorphiaと表現している。(下記動画参照)

www.youtube.com

 

容姿が「美しくない」と勝手にジャッジされればばかにされ、

シラノのように誰かに自分の気持ちを伝えることもままならないし、

ロクサーヌやクリスチャンのように美しくても勝手にレッテルを貼られ、

いずれにしても孤立する。どうしろというのか...

 

「容姿と知性は両立しない、美しい女性は頭が空っぽに決まっている」

という偏見と闘う女性を描いたビューティフルブロンドという映画もあった。

 

ルッキズムと言えば思いだすのが、

Big Mamaというグループのミュージックビデオだ。
華やかなドレスを着た4人の歌手がステージで歌う、
何の変哲もないビデオに見えるが、最後まで見ると、実は...。

 

youtu.be

 

ロクサーヌは言う。

「見た目などただの皮だ」と。 

 

冒頭で語られる。

ジェンダーは流動的だと。

 

見た目なんか気にしない、中身が大事、というなら、

性別はどうなのか?

ロクサーヌは、「見た目などただの皮だから」といって

女性のことも恋愛の対象にするのだろうか?

その人の心のありかたや才能に惹かれるというのなら、

性別がいったいなんだというのか、と。

シラノはどうか?

「自分は見た目のせいで女性の恋愛対象にはならない」というが、

男性に恋愛の対象にされることは想像したのだろうか?

 

この劇において、偏見やヘテロ規範をまず破ったのはクリスチャンだった。

大学に入るほど優秀なロクサーヌでもなくシラノでもなく、

「自分にはあなた(シラノ)ほどの文才はない、

聡明なロクサーヌが自分の平凡さを知れば愛想をつかされてしまう」と

言っていたクリスチャンが、シラノにキスをするのだ。

 

うお~~~~~~!!!

クリスチャン!!!ブラボー!!!!!!

 

最近読んだ小説アディーブ・コラーム「ダリウスは今日も生きづらい」には

「彼の心には壁がない」という文章があった。 

ダリウスは今日も生きづらい/アディーブ・コラーム/三辺 律子 | 集英社の本 公式

 

デイヴィッドミッチェルの小説で映画にもなった、

クラウドアトラスの「すべての境界は慣習だ」というフレーズもある。

小説と映画の台本は微妙に違っていて、

映画の台詞は次のようなものだ。

"All boundaries are conventions, waiting to be transcended.

One may transcend any convention if only one can first conceive of doing so.

Moments like this, I can feel your heart beating as clearly as I feel my own, and I know that separation is an illusion.

My life extends far beyond the limitations of me."

https://www.quotes.net/mquote/986927

小説のほうの一説は下記の通り。

"Boundaries between noise and sound are conventions, I see now.

All boundaries are conventions, national ones, too.

One may transcend any convention, if only one can first conceive of doing so."

「どんな慣習も飛び越えることができるかもしれない、

もしそうすることをまず思いつくことができれば。」

クラウド・アトラス 下 :デイヴィッド・ミッチェル,中川 千帆|河出書房新社

 

“Is there a version of life where two men can live as one person?"

シラノにキスをする前のクリスチャンの台詞だ。

自分もシラノのような文才があればいいのに。

自分とシラノを隔てるものがなくなったらいいのに。

クリスチャンはそう思ったのだろうか。

とにかくあのときのクリスチャンには、目の前の一人の人間シラノしか見えていなかった。

そんな場面だった。

男性にキスをする男性の名前がクリスチャンって、なんか最高じゃないですか。

聞いてんのか、バチカン

 

誤解のないように書いておくと、ヘテロセクシュアルと思しき人が

同性愛について語るときの常套句「性別を超えた愛」とかいう

(飽きもせずコピーペーストか?みたいに使われますよね)

謎フレーズに毎回怒っています。どういう意味なんだろう。

同性どうしなのでべつに何も超えてはいない...

 

私がこれまで見た中で、男性同士のキスがあった舞台はただ2回だけだ。

女性どうしのキスがあるお芝居は見たことがない。

2013年ロンドンナショナルシアターで見た「エドワード2世」と、

このシラノである。

エドワード2世のほうは、もとの戯曲からエドワード2世と

愛人ギャヴェストンは恋仲なのだが、

シラノの戯曲ではとくにシラノとクリスチャンは恋はしない。

 

舞台や映画を見るのは面白いのだが、

シスジェンダーヘテロセクシュアルの登場人物しか出てこないのは

排他的だし、作る側の怠慢だ。

クィアや、白人でない人々を排除していることへの傲慢さと残酷さも感じる。

このブログを書いている本人もクィアの人間だが、

白人しか出てこないだとか、ヘテロの人々しか出てこない物語を、

「そういうものだ」と諦めて見ているしかないことに慣らされすぎていたと思う。

もちろん、そうではない物語もたくさんあり、

そのたびに勇気づけられてきた。

真夏の夜の夢も「女性が男性の振りをする」物語だが、

結局成立したのはヘテロカップルだけである。

つまらない。

さすがにヘテロのみなさんも飽きませんか。

俳優も脚本家も飽きると思うが...

言うまでもなく、どうしても女性男性ペアの話でないとならない場合も

たくさんあるでしょう。エリザベスモスの透明人間とか。

 

ちなみにクリスチャンがシラノにキスをする場面で、

観客の笑い声が入っていたのが聞こえた。

誰ですか笑った人は。

 

クリスチャンはロクサーヌの美貌に心を奪われ、愛の告白をするも、

ロクサーヌは「私を愛しているのはわかったから、言葉でそれをもっと表現してみて」と言う。

ロクサーヌは「彼が見ているのは自分の外側だけではないか」と疑っているのだ。

しかしロクサーヌもまた、クリスチャンのことをよく知らずに

彼の容姿の美しさに一目惚れをしている。

 

クリスチャンは、シラノの鼻のことには絶対に触れるなとみんなに言われ、

逆に鼻のことを揶揄してシラノを挑発する。

「男に対してはどうとでも言えるが、

でも女に対してはどうしていいかわからない。」とクリスチャンは言う。

これはクリスチャンが同性と異性で態度を変えているということだ。

こういうことを言う人は、現実にも少なくない。

たとえば男性が、「男性のことは多少雑に扱ってもいいが、

女性がいると気を遣う」などと言ったりする。

なぜ男性は男性に対して「気を遣う必要はない、暴言を吐いてもいい」と

思ったりするのだろうか?

なぜ「こいつのことは人間扱いしなくていい、言葉を尽くさなくてもいい」

なんて思ってしまったりするのだろうか?

人の外見をからかったクリスチャンのことを知っても、

ロクサーヌはそれでもクリスチャンを愛するのだろうか?

シラノはクリスチャンにひどいことを言われたのに、

それでもロクサーヌがクリスチャンと恋仲になることを

心から望んだのだろうか?

まじで?それでいいのかシラノ!!(誰?)

 

ただ、ロクサーヌの立場になってみると、

シラノとクリスチャンに「ロクサーヌへの思いが通じるといいですね」とかは、

ちょっと言えない。

(というか、「恋を応援する」とかいう表現の意味が私はよく理解できない。

野次馬根性っぽいし、第一かなり無責任では?

その「応援した」恋の相手が、万が一DV野郎とかだったらどうするんだろうか。)

ロクサーヌにしてみれば長年騙されていたからである。

そりゃそうです。

 

シラノがロクサーヌに送る詩のなかに

shimmerという語が出てくる。

たしか字幕は「揺らめく」となっており、

星や光がかすかに、ちらちらと光るさまだそうだ。

ジェンダーが流れ移り変わるものであるということも、

人が誰かの外側だけを見て思い込んでいる虚像のようなものも、

これに少し似ているのじゃないだろうか。

 

親密さintimacyとは身体的な近しさに限らない。

相手に身体的に触れることだけが「近しさ」なのだろうか?

シラノは言葉の力を信じている。

言葉が時代も場所も超えて人の心に触れたり、

かき乱すことができることを彼は知っている。

"I love words that's all."と言い切り、

権力に媚びることを拒否し、

コントロールされることをシラノは嫌う。

人々の心を動かせるほどに言葉を巧みに操るシラノ。

大勢の人が、彼の表現する言葉に恋をしていたとも言えるのではないか?

彼が書いた月世界の小説は、争いのない平和な世界を描いたもののようだ。

出版されて、きっと多くの人に届いたであろう。

嵐の暗い海も遠くまで照らす灯台の光のように。

 

以下、印象に残っている点や気になった点をいくつかあげたい。

 

1)ジェームズマカヴォイのスコティッシュイングリッシュ。

シラノがいわゆるクイーンズイングリッシュを話していたら

ここまで印象に残るかはわからない。

 

2)ロクサーヌに会おうと言われた緊張と嬉しさで

「胃が喉のあたりまで来てます」みたいになって

涙目でテンパってるシラノ。こっちまで胃が口から出そうになった。

 

3)シラノのクリスチャンに対しての台詞。

"shit looking"という言葉を言うときのシラノは

一瞬それを言葉にするかどうか躊躇う。

言いながら、その言葉を発する彼の心が抉られているのが伝わってくる。

なぜならそれは、彼が周りから自分はそう見られているだろうと思い込み、

さらに自分で自分にかけてしまった呪いの言葉だから。

それにしてもひどい言い方である。 

 

4)クリスチャンがシラノの鼻のことを言ったのに

激怒されるどころか親友だとか言われたのをいいことに

シラノの鼻を次々にいいように言いはじめる男たちの場面は、

つらすぎて逃げ出したかった。

 

5)「美しさ」とはなんなのか?

それは誰か/何かを「美しくない」として排除する「境界線」なのだろうか?

 

6)シラノと部隊の男たちが半裸で騒いでいるシーンがある。

しかし、どれだけ男性が裸になろうと、

今の世界で、それが女性の裸と「同じ意味を持つ表象」には、

残念ながらならない。

ルッキズムについて「見る側=主体=男性、見られる側=客体=女性」

という強固な構造も忘れるべきではない。 

 

7)「軍隊とはそういうもの」「男の子ってそういうもの」「私は女だから」

などのジェンダー規範を繰り返す台詞。

だが劇の最後で、幼い頃に元気に駆け回っていたのは実はロクサーヌで、

シラノのほうが想像をしていたことが明かされる。

どこかの時点でロクサーヌは「女の子はもっとおとなしくするもの」、

シラノは「家にこもってないで元気に遊びなさい」と誰かに言われたのかもしれない。

そして、ロクサーヌがシラノに「私もあなたにひどいことをした」(言い回しはうろ覚え)と謝るのだが、

おそらくだがロクサーヌも幼い頃に、シラノの鼻のことをからかったことがあるのだ。

見た目のことをとやかく言われることは、大人でさえ傷つく。

まして幼いシラノがどれほど傷ついたかは想像に難くない。

シラノがロクサーヌをいつ頃から恋愛対象として意識していたかはわからないが、

自分の容姿のことをからかった人を、それでも想い続けていたのか、シラノよ...

なんというか、シラノを苦しめているのは自分の見た目のこともそうなのだが、

恋愛/性愛/カップル至上主義の呪いでもあると思う。

べつに、恋愛をしない、誰にも惹かれないからといって、

人間としてどこかおかしいとか、そういうことは一切ありません。

(後述のアセクシュアルの本など参照。)

べつに愛する人が一人でなければならないということもないだろう。

この話もわりとつらい結末なので、もう3人で仲良く暮らしたらいんじゃね?

とか、つい思ってしまった。

映画の男と男、すぐ喧嘩をおっぱじめるけど、殴りあう前に

まず互いに詩の朗読でもしてみたらどうなのか(シラノはやっているが)。

アシュラのソンモとドギョンとかに言っています。

 

8)ロクサーヌは「私は女だから、言葉で愛情を表現してほしい」と

クリスチャンに伝える。

その美貌のせいで、身体を目当てに近寄ってくる男性たちへの牽制なのだろう。

ただ、それは「私は女だから」なのだろうか?

言葉で愛情を表現してほしい男性もたくさんいると思うが...。

 

9)終盤にロクサーヌが遅刻したことのないシラノが遅刻した理由を

「女の人と会っていたのでしょう」とからかう。

大怪我をして病院から抜け出してきたシラノは、この時点で瀕死である。

こんな皮肉ってあるだろうか。ロクサーヌ、けっこう残酷な人である。

そういうところをシラノは好きだったのかもしれないが。よくわからない。

 

 10)劇中でシラノがクリスチャンにさんざん自分の鼻をばかにされたあとに

「抱擁だ!"Embrace"」

と言う場面は、戯曲(光文社刊のもの)では「接吻だ」となっていた。

頬と頬をくっつける挨拶のことだろうが、

字で見るとけっこうインパクトがあるな...

シラノ・ド・ベルジュラック ロスタン、渡辺守章/訳 | 古典新訳文庫 | 光文社

 

11)シラノが属する部隊の男性たちは、みな屈強そうな体格で

髪型もみな丸刈りに近い。

余所からやってきて、後からその部隊に入るクリスチャンは

どちらかというとすらりとした体格で、髪型も丸刈りではない。

この辺もクリスチャンが、集団に属しながらも、

その多数派の規範とされているものからは少し外れる存在であることを表現しているのだろうか?

ちなみにクリスチャンは左耳にのみピアスをつけている。

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写真中央がクリスチャン(Eben Figueirdeo) 

https://thequeerreview.com/2020/01/18/theatre-review-cyrano-de-bergerac-playhouse-theatre-london/

 

最後に、戦争から時間が経ったあとの場面があり、

そこにはすでに亡くなったクリスチャンがロクサーヌとシラノのあいだに座っている。

(上記写真参照)

これはクリスチャン亡きあとも、

シラノがロクサーヌのことだけでなく、あの日自分にキスをした

クリスチャンのこともずっと考え続けていたということなのじゃないだろうか。

ロクサーヌに会うということは、クリスチャンのことも思い出すことではないか。

クリスチャンがいなくなっても、シラノは「これで邪魔者がいなくなった」とは

考えなかったのじゃないだろうか。

シラノはクリスチャンがいたからこそ、ロクサーヌへの思いを手紙で表現できたのだし。

あのままクリスチャンが生きていたら、シラノはロクサーヌと同時に、

クリスチャンのことも愛しただろうか。 

クリスチャン...死んでる場合じゃない...

 

この文章のなかで恋愛/性愛と併記した箇所について、

これはasexual/aromanticというセクシュアリティを表す語に基づいている。

特定の相手と親密な信頼関係を築いても、同時に、

性的な関係を結ぶことが必ずしも必要でない、重要でない人たちもいます。

「恋愛」の定義もまた、人それぞれ揺らぎや幅があるものです。

 

セクシュアリティについての本の著者アンジェラチェンのインタビュー

Angela Chen: Asexuality Is Pretty Complex—And That's OK from LGBTQ&A | Podcast Episode on Podbay

 

日本語で読めるアセクシュアルについての本

見えない性的指向 アセクシュアルのすべて - 株式会社 明石書店

 

参考までに、WHOのセクシュアリティについての定義もかなり複雑です。

Sexual and Reproductive Health and Research (SRH), including the Human Reproduction Programme (HRP)

 

以下に、いくつかルッキズムについての作品や、

劇中に言及された作品に関連するものをあげてみたい。

 

ルッキズムをめぐるいくつかの物語 

小説「亡き王女のためのパヴァーヌ」パク・ミンギュ

人の容姿を「醜く劣っている」とジャッジし、攻撃し、揶揄することの卑劣さ、醜さを

炙り出す小説。

shop.chekccori.tokyo

 

映画"The Half of It "

2021年5月現在netflixで視聴可能。アリス・ウー監督作品。

この映画では、シラノの役どころにあたる人物は中国系移民の女の子で、

古典をもとにしながらも、

どんな小さくて狭いコミュニティにもクィアはともに暮らしていることがわかる、

素敵な翻案だ。

監督インタビュー(このLGBTQ&Aのpodcastは他の回もおすすめ)

Alice Wu: The New Queer Rom-Com from LGBTQ&A | Podcast Episode on Podbay

 

小説 「アキレウスの歌」 マデリン・ミラー

honto.jp

アキレウスパトロクロスの恋を描いた小説。

劇中(戦地の場面)でシラノが読んでいる「イーリアス」に

出てくるアキレウスパトロクロスは、同性の恋人どうしである。

その後の場面、シラノとクリスチャンのキスシーンを暗示するかのようだ。

でもシラノにキスしたクリスチャンが死んでしまうのが、

ヘテロじゃない人は死んでしまう」不文律みたいでいやなのだが...

残念ながらこの本は現在、紙の本は絶版状態のようです。

ぜひ図書館などで探してみてほしいです。

 

シラノ役ジェームズマカヴォイインタビュー(2020年9月)

 

open.spotify.com

 

最後に、私が今回シラノを見られたのは、

今住んでいるところの映画館で上映されたからです。

普段はNTLレギュラーの上映館ではないのだが

(レギュラー劇場は日本全国で数箇所しかありません)

今後もいろいろなまちで定期的にかかったり、配信されることを願う。

記念にちらしの写真を貼ります。

 

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これで本当に最後にしますが、

感染症拡大により先の見えない大変な状況が続く中、

映画館で働く人たちには尊敬の念と感謝しかありません。

でも、感謝だけではどうにもならない。

日本政府よ、ちゃんと補償をせよ。

 

ちなみに、日本において劇場、音楽ホールや美術館などがいわゆる「ハコモノ施設」とされ、

優先順位が低く位置づけられてきたのはなぜなのか、

歴史的な背景を解説した本がこちら。

アーカイブの思想 | みすず書房

 

長くなってしまいました。それではまた!